旅をしていると「ひどいことを言われた」「ひどいことをされた」という被害を耳にすることがあります。というか安全性を考えて、なるべくどんなリスクがあるのかを知る努力をしているので、耳に入れるようにしています。
実際に色んなケースを聞いていると、どうにも避けられない被害があったりしますが、そうでもない被害もあったり。
そうでもない被害に対して「はぁ?」と思うことがあるのですが「〇〇人は最低だよね」とか「〇〇人は分かってないよね」とか「あんなことして、された相手がどう思うか分かってんの?」みたいな事を耳にすると「はぁ?」と思っちゃうんですよね。
というのも、こういう言動をしている人って、一生懸命必死のパッチで人を責めていることに気付いていないんですよ。
「謝ってほしい」「分かって欲しい」「正しさを知ってほしい」と、自分が持ち合わせている価値観が世界の正解かのような立ち振舞で旅をしている人がいます。
そして、こういう人に限って次々に嫌な出来事が舞い込んでくる苦行となるんですよね。
なぜなら「正しさ」を言う「権利」を得るためには、ひどいことされないといけないし、もっと言うと、同情という説得材料も欲しかったりする。
そして、ひどいことをしそうな人を引き寄せて、いや、捕まえてきて、実際にひどいことをさせています。
そして「オレは、他人にそんなことは絶対しない。ホントどうなってるんだ?」と「いい人」「正しい人」の猫をかぶる。
でも、これって深く見ていくと「オレの事を大事にしてよ」「オレはかわいそうな人なのを分かってくれよ」という本音が心の奥にはあって、それを隠すために「正しさ」の旗を振りかざして、他人が知り得ない外国人を悪者にして、承認を求めていたりするものなんです。
でも、当の本人には「人を責めている」と気づかない。「認められたい」「大事にされたい」という本音が出てしまっていると気づかない。
被害者という名の加害者になってしまっているんです。
「ひどいことをされた」と言うけれど「被害」を欲していたんだからひどい事が起きてくれるよね、そりゃ。
これに気付かない限り、旅をすればトラブルを引き寄せて、ひどいことっぽい事実をコレクションして、本音を隠して誰かを責めて生きていく。
そして、自分に都合のいい人を「いい人」と定義し、常に周りに「いい人」であることを求め、そこから外れると悪い人になる。そして、悪い人という判子を押した瞬間に悪い人にひどいことをされたと言う。
そんな悲劇的なゲームをしている人がいる。そのゲームをするのも一つの旅の在り方。旅じゃなくても人生でこんなゲームをしている人も多いみたい。
そんなんじゃ1ミリも楽しくないし、何もならないんだけどね。
旅をしていて痛感するのは、自己責任能力が無いと旅は何も面白くない。被害者意識を捨てた瞬間に旅は一気に面白くなる。
これって、人生でも同じだよな。ふとそう思ったベルギー・ブリュッセルの朝。